2009年 12月 05日
1:初めに 福島県二本松市錦町の不思議な巨石について考察した。 恐縮であるが私は「巨石!東北の巨石番付」というブログを開いている。 その中で“横綱”として福島県安達郡白沢村の岩角寺の巨石群を格付けした。 本来単体としての巨石を格付けしているのだが岩角寺の巨石と福島県石川町・石都々古和気神社の巨石だけは巨石群として例外扱いをした。 その岩角巨石群にたった700m程に隣接する二本松市錦町吉祥寺を中心に不思議な巨石が点在している。 番付ブログに於いては、一部巨石を既に「番付十両、吉祥寺・立石巨石」として掲載していた。 平成21年夏「岩角山の巨石群」に魅せられ4度目の確認に出向いた際、吉祥寺にも立ち寄ったがたまたま道を間違えた為、偶然にもマウンドに鎮座する巨石の全体が目に入った。今まで正規ルートを車で通過していても一部分しか見えてなかったので、小山にへばりついている丸い何処にでもある路傍の巨岩と軽く見流していたものである。 今般その巨石に登ったりマウンドをゆっくり廻り込んで確認した。 一部とは言い乍ら今まで何故降りて調べなかったのか!と歯軋りする気持ちと後悔であった。 同時に“何故こんな所に巨石が3つ並んで置いて?あるのだ!”と、不思議な巨石へのめり込んだのである。 取り敢えずは、「小結 福島県二本松市錦町立石:大満好石 」として格付けした。 その後、既に格付した「立石と烏帽子石の両巨石」をよく調べるとこれまた三つ石の跡ではないかと思われた。 今般、その確認した結果を考察し、厚かましくも且つ無謀にもその不思議を考察し取り纏めた。 尚、今般これを纏めるにあたり、今から83年前の大正15年に調査確認された石も参考にされて、14年前の平成7年に、地元に於ける町興しの一環としての石の表示等の結果を併せ小誌に纏め発刊された“真言宗立石山吉祥寺様”による「錦町の銘石と石造文化財」(以下資料と言う。)を参考にさせて頂いた。 抜粋掲載した箇所も多数あるのでお断りして置きたい。 が、今般のこの構成考察は私自身の責任に帰するもので、資料の著者、関係者の方々には一切責任はない事を付記させて頂き度。 ただ、一方で、この考察については資料本の発刊「資料監修者鈴木光様」のご一読を頂いた事も付記させて頂く。勿論ご理解を得たという事でなく目を通して頂いたという事に過ぎなく私自身の勝手な考察である事に変わりない事をご理解賜わりたい。 資料監修者の鈴木光様は現在齢90歳を越え元気でおられるが、多少は耳が遠くなられたもののお尋ねした巨石 や寺院名等に対してのご教示は淀みなく、その記憶力は抜群で、感嘆致した次第であり、又二度に亘りご意見など伺い大いに参考にさせて頂いたものである。 2:真言宗立石山吉祥寺周辺の銘石 二本松錦町は二本松三春線から少し入り込んだ所にある。岩角山の北西700m程に位置する道路沿いにある。 下の写真は吉祥寺の下から撮ったのだが、手前の二つの石が立石と烏帽子石である。 後方のこんもりしたマウンドが三つ石の裏側にあたる。 昭和59年ここ吉祥寺境内から棒状石製品が出土した。尚、以下写真には人物が写っていて邪魔ではあるが、敢えて石の大きさを知って頂く比較の為でありご理解下され度。 全長、0、85m、径、0、27mで当遺跡最大の出土品という事である。 この他、土器、石皿、土偶、石鏃石具類や無数の土器片が出土したとある。 縄文中期・紀元前2,500年前のものと判明しており、県の考古学会より、太古より崇拝された霊岩地帯と認められている。 二本松市史第九巻によると、「・・・西新井地区の字立石に立石明神の石塔群がある。花崗岩の露出した自然岩塊の小山で大小四十数個の群からなり、太古から崇拝されたと見られる霊岩で周辺に石塔群があり・・」、「・・立石岩明神の近くにある真言宗寺院吉祥寺に・・・養蚕神の神像が安置されている。立石山吉祥寺が立石岩明神の別当寺である。・・」とある。蛇足だが根を下ろした神仏習合思想は明治新政府の神仏分離で想像以上に混乱をきたした様である。 また、資料には、「立石一帯は縄文中期の遺跡でもあり・・・正徳寺創建、中世の葉の木山館の存在、鎮守慈眼明神の勧請等々、立石地帯は霊岩塊を中心とした、この地方の信仰と文化発祥地であった事が考えられます。・・・」とあり、「・・・後代の人たちも先人たちの意思を継承し、厚い敬神崇祖の念から折々に様々な石塔を立てあるいは種々の施設を施し、地区民の心の古里として現在の景観が築きあげられたものと思います。」と結んでいる。 主だった銘石をそれぞれに伝えられる伝説をごく簡単に付記し紹介する。 資料は「・・・いにしえの信仰は森羅万象全てのものに霊が宿るとされ、先人達は巨岩や特異の岩石に石そのものの持つ自然性と重量感から特に畏敬を感じ信仰の対象とし、あるいは神仏の名を穿つなどして信仰してきたものと考えられます・・・」と記している。 『御神楽石』 吉祥寺を道路側から見上げると巨大な獅子頭が天を仰いでいるように見える所から付けられたという。 『荷鞍石』 御神楽石の東面に欅の大木を背負うように張りついている所から付けられたものという。 ]『船石』 御神楽石の南面に半ば埋没しているが、船の軸先の形をしてる所から付けられたという。 『亀石』 これまた埋没してしまっているが、参道を山裾から横切るように横たわっている亀甲状の石の形からこの名が付けられたという。 『鶴石』 同様、亀石から10mの距離にあり鶴亀一対の意味を持たせて付けられたものと思われるとある。 『道陸神』 吉祥寺から200mほど離れた旧町内との分岐点に古くから祀られているという。 どの地方でも、花嫁が通れない道、通ってはならない道、などの俗信も持ち、祭神にも諸説あり特異な神様という。 『耳垂れ石』 道陸神の後方にあり、耳の病に効験があると伝えられ、戦前までその名残があったという。 道陸神と関連して神格化して付けられたものか!という。 『血吹石』 道陸神と同じ場所にある。 嫁に行った先で耐えられなく実家に戻る途中この蔭で悩み・・・そして闇に消えた。 長い年月の後、堰工事の為岩を割ったが割れず代わりに血がにじみ出たという。 『達磨石』 径約0、8mのやや球状の自然石で表面に人面が彫られていて人知れず草むらに埋もれていたという。 3:提案(考察):三つ石巨石はオリオン信仰か! 3-1:「立石と烏帽子石」の三つ石 吉祥寺の50mほどの所に「立石と烏帽子石」がある。 不思議な光景である。周りにこれと似た巨石などは存在しないのだ。 二つとも大地から突き出たかと思われるようである。 右が烏帽子石で勿論形状からその名がついている。 左が立石で約5mの高さがある。この旧地区の地名の発祥と言われている。 資料では、「・・・二つが独立し並立している姿は神秘感と自然の造形美」と賞賛しているにとどめておられる。 しかし、大袈裟にいえば、この両石がほんとうに地球誕生以来此処に存在したのだろうか! もしかしてその後に地殻変動等によって隆起したものであろうか! 私にはあたかもどこからか運ばれてそこに配置された如くに感ずるのである。 よくよく確認した所、立石、烏帽子石の直ぐ脇に少し出っ張った石が確認できた。 私が左手で指し示している所である。 雑草で覆い隠されているが、地中に埋められていて上だけが破壊されたように見えるのである。 その第3の石痕 鈴木光氏にお尋ねしたが、案の定、大分昔は三つ立っていたという。そうなのだ、「三つ石」だったのである。 唐突であるが、所謂オリオン信仰から来たものではないのだろうか!と思うのである。或いは三つ石信仰か! 立石と烏帽子石の二つには流石に手を付けず、奥の三つ目の石を砕き利用したと推定される。 三つ石のその学術的な価値も考慮されずこうして一つは消えて行ったのである。 只その後、石仏等の保存及び研究が村で話しあわれ、実行されて今日に至っているという事である。 この吉祥寺の目の前の山の名は!羽山!である。 この山の麓に、前述した達磨石だけでなくすぐ近くの不動滝の脇に不動尊が祀られている。 この不動尊の一つ置いた隣の山が羽山なのである。羽山信仰もあったかと思われる。 人は死ねば霊となり3年は家の周りで、3年過ぎると羽山に行って家を守り、33年過ぎると霊界に上がるという信仰である。 部落を見下ろす所が羽山なのである。 更に庚申信仰も盛んに信仰された様である。 吉祥寺境内には珍しい『親庚申塔』も存在する。庚申塔の親様なのである。 縄文のいにしえから住んでいたこの地域、信仰対象は変わってもその信仰心は失われるものではない筈だ。 いや、変わることなく同時に色々な信仰を対象としたかもしれない。 信仰の対象は自然の巨石や巨木そして星座の信仰なども、初めは北斗七星やオリオン星を拝んでいたかも知れない。 縄文時代に集落を営み住んでいた事が立証されてるなら更に古い時代から住んでいたと推定しても無理はないと思う。 羽山の下には不動滝といわれる川もあり古代人が住まない訳はない。 勿論オリオン信仰が朝鮮半島から渡来人によって(・・・と言う事は学者によると弥生時代になるが・・)持ち込まれたのではないかという説は有るにしても(そんな新しい時代ではないはず)、それぞれの地域によってはそれとは別に古代から星への信仰はあったと思うのだ。 当然北斗七星やオリオン星も対象になっていた筈だ。 この様にこの立石の三つ石はオリオン星への信仰から来たに違いないと思うのであるがどうであろうか! 星座を地上に投影する発想と実行は一部地域にとどまらず、日本国中何処にでもあったのではないか! これも蛇足であるが、青森の超古代研究家の佐藤有文氏によれば、時代はずっと下るが、巨石ではなく、「津軽の地では毘沙門天信仰が盛んで古い妙見神社を地図上で線を引くと巨大な北斗七星の図形が描かれる」(鈴木旭著・日本超古代遺跡の謎)といっておられる。これも神社が星座として地上へ投影されたものである。 従って当然三つ石は運ばれて此処に配置されたもの!と推測するのだ。 3-2:「烏石山」三つ石 次に、マウンドの様なこんもりした山、これが今回の主眼なのであるが山の名は「烏石山」という。 山と言う程のものではない。 マウンドの右端にあり突き出た様な石で烏が口を開けた様に見える所から「烏石」と付けられたという。 それにしても三つの右端の烏石がこの山の名前とは面白い。特長を捉えたからなのだろう! 真ん中の石は庚申岩、左端はその形が楕円であり中央部が割れている所から「大満好石」転じて「女石」更に転じて現在は「弁天岩」という。 頂点に弁才天の石塔が立てられており最終的にその名の原としていた訳である。 ここの石斜面に「奉庚申供養磨崖仏」があり、上部に日体、月体、下部に三猿と講中拾 人の文字が線彫りされていたというが現在は判読できない。 この地区には確認されているだけで、石塔37基、石像7基、磨崖5基が確認されているという。 この烏石山の三つの石の形状について、鈴木光さんが語るには「90年間全く変わらず、親にも聞いた事があるがこれまた昔から変わっていない、」という事であった。その様な百年や二百年の年月の単位ではないのではないか。 古代から変わらずあったかもしれない。 右端の烏石は真ん中の庚申岩から割れたに違いないが、意図的に割って3つにしたのかもしれない。 このマウンド=烏石山が道路を隔てた山と続きであったのかという事が疑問であったが、昔からこのままで、山とは続きではなかったという事であった。ただ、間に道路があるという事はかつては続きであって、踏み固められくぼみ、道路として整備補修されてその面影を無くして続きでないように出来上がったのかもしれない。仮に続きであったとしても、大体、山と言っても転がり落ちるほど勾配の急な、しかも高い山ではないのだ。 とすれば山から転がってきた訳でもない。 ましてや仮に転がり落ちて来てもこの様に三つ並んで(・・後で割れたか割ったかであれば2つが・・)納まるなんて事はありえない話である。 …であるならば、ここの三つ石はここに初めからあったか持ち込まれたか!という事になる。 ましてや周囲の地に、既述の「立石&烏帽子石&第3の石」の三つ石の他は、こうした巨石が存在してないのである。 とすれば立石と烏帽子石と同様運ばれて配置されたとしか考えようがないではないか!。 しかしまた、この巨石を運ぶ事等、先ず常識では考えられない事である。 この巨大な石の上に立って見られるがいい、現実的に全く不可能と思えるからである。 でもこのマウンドに立った三つ石の全体像を眺めて頂きたい。不思議な感覚に陥る事である。 この巨大な石を運んで配置した訳でもないとしたら、何故、これほど人為的な臭いがするのであろうか。 こういったものについては、どう見ても明快な答えが出ない。勿論文献などに書いてある筈もない。 初めから人為的な移動などありえない事として頭から否定されてしまう。当然の事である。 しかし、何度も言うようで恐縮であるが、考えられるのは只一つ、「現代の能力では不可能だが人間が運んだとしか考えられない」と思われる事なのである。 こういった事は、例えが大袈裟で適切ではないかも知れないが、オーパーツの類で、現代の力をもってしても移動不可能と思えるパールペックの超巨大石「南方の石」と同様ではないだろうか。不思議は世界中に存在するのである。 後ろの山と言っても転がり落ちるほどの高さは全くないのだ。 何処から見てもマウンドにそっと置かれたように見えるではないか! 誰が何の為に、どうやって!の答えが出ない。古代人の英知によるものか!等と言うと与太話として笑われる! だが、私はオリオン星の信仰から来たに相違無いと思うのだ。 その為に700m離れた岩角山麓に転がっていた石を運んだのだ!(これは想像の域を出ず強引過ぎるか?) こうしたものは、現代感覚しか持ち合わせていない我々の常識的な考えからは及ぶものではないのではないか! 唯一考えられる事は、マウンド上の三つ石も初めは一体になっている巨岩だったが、元々出っ張った形をしていた上の石が長年の風雨で削られて二つの石となって姿を表し、そして又一つが二つに裂け(裂けたか裂いたか、これは確実だと思われる。)、そしてこの三つ石だけが徐々に現在の形になっていった。初め一体であった周囲の巨岩も全体として削られ二つの石を押し上げる格好でいつの間にか草木の土で覆い隠されてしまった、と。 自然は時として我々の計り知れない魔法を見せてくれるので、ないとはいえないが余りにも出来すぎで信ずる訳にはいかない。 蛇足ながら、因みに東北の三つ石を見てみよう。皆運ばれてそこに置かれているではないか! 岩手盛岡市の三つ石神社の三つ石 福島二本松市の三つ石神社の三つ石 山形天童市の剣龍山の三つ石 4:結言 上記の通り、岩手盛岡市三つ石、福島二本松市三つ石、山形天童市三つ石に勝っても劣らない、堂々たる雄姿ではないか! 巨大さにおいては比類がない。東北最大の、否、私の知る限り国内最大級と言うべきであろうか! 強引と思われるのは百も承知なのであるが、私自身、どうしてもオリオン星信仰から来た三つ石と考えるしかないのである。 勿論「立石・烏帽子石」も嘗ては三つ石だった事も含めてである。 この地域に二つの巨大な三つ石が存在したのだ。 今後も周辺の巨石配置を調べながら得心が得られるまで進めていく心算である。 本提案書に対してイワクラ学会事務局長の柳原氏は、「・・・周辺のイワクラの存在からオリオン座の形が見えればよりリアリティが出てくる・・。巨石と天空の星との相似、古代の人はこのことに多大のエネルギーを投じたのだと思う。 余談だが、私も先日大阪の交野が原に巨大な北斗七星を発見した。全国に星空を地上に映したイワクラが多数存在すると思われる。」とメールでご意見を寄越して頂いた。 もしかしたらこの二つの三つ石も一つの点として、さらにこの周辺の巨石を点で結んだら何かの星座が浮き上がるかもしれない。(只2つや3つの石を一つの点としてみることには無理があろうけれども。) うれしい事に、この地区の方々の巨石保存に対する考え方は資料にも載っている。 「錦町の銘石と石造文化財」の巻頭「ごあいさつ」の中で、「・・・銘石は天与の宝物であると共に地区の誇りでもあります。又石造文化財は祖先たちが残してくれた掛け替えのない貴重な遺産であります。長く地区民の“心のふるさと”として、今後ともその伝承と維持保存及び顕彰にさらなる尽力を切望する次第であります。・・・」と。 更に、石造文化財については「・・・野仏には祖先達の純真で一途な信仰心と汗と血と涙がにじみ込んでおり、単に信仰の遺物として看過する事は出来ないと思います。又野仏は百万金を積んでも絶対再生できない貴重な文化財であり、野仏を大切に保存維持する事は現代に生きる私達子孫の責務であり、その事は取りもなおさず祖先の供養につながる事と思われます。」と書き記されている。 勿論、野仏と巨石の相違はあるが、巨石にまつわるその謂われ伝説等もこの地の方々によって書き記されている事は同様である。 貴重な文化遺産と言うべきその巨石(イワクラ)が、開発のもと破壊されてきた事はいたる所に見受けられると言うが、この地域にあっては石の価値を認識され積極的に維持保全されている所に感動し敬意を表するものである。 以って、他所に於いてもこうした地域の巨石(イワクラ)保全の静かなる機運が盛り上がる事を切望するものである。 以上 追記: この「提案書」を鈴木光様にお届けしたのであるが、鈴木様が更に、自分が嘗て石や寺や文化財等について色々伝教された後輩の方に読み回したとの事。 それをご覧になられた後輩、即ちご近所に住む71才になられる渡辺伝司様であるが、その渡辺様から思いもかけずお電話を頂戴した。 「何の関わりもない遠くの方が、ここ錦町の巨石について調べられ、立石や烏帽子石及び烏石山の巨大な石について一つの仮説を立てられた事に敬意を表すと共に、地元のこの巨石群に光を当ててくれた事に感謝する。」というものであった。 筈て、地元で橋を架ける工事の時、この巨石を取り壊し砕石として利用する話が出たそうである。 地元では昔からのこの地にある馴染んだ巨石を壊す事に反対したそうで、今ここにこうしてある事に感慨を覚える、という事でもあった。 私は鈴木様や地元の方々からお叱りを受けたり、又、ご迷惑な事があっては申し訳ない気持ちでいたのであるが、逆に励まされ、しかも“考えれば私の仮説がありうる事かもしれない”などと勇気づけられるお言葉も頂戴したのである。 深い探求もなく濃密さも持たない薄っぺらなこの提案書に、過大な御礼と評価を頂いた事に恥かしさもあるが、地元の方に喜んで頂ける事は望外の喜びである。 「近くに来られた際にはぜひお立ち寄り頂きたい!又、知る限り石にまつわる伝説等をご伝授したい!」とのお言葉には有り難く感謝の言葉も出ない。 …現在は、既に渡辺様の自宅にお伺いして、巨石や野仏の謂れ・歴史等についてご高説等を拝聴し感銘を受けている次第である。 #
by yo-hamada7
| 2009-12-05 14:00
| 東北の巨石
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